夕焼け空。銭湯にでも行きましょか - ふぁみとりっぷ5号館

【野鳥初心者のうろうろ日記】
 2020年05月31日 荒川生物生態園

【山レポ】
 2009年08月10日 富士山 - 山頂で台風(汗)
 2018年06月01日 武甲山
 2018年06月08日 陣馬山・景信山・高尾山(奥高尾縦走)
 2018年09月17日 尾瀬沼~尾瀬ヶ原1泊2日(IN大清水、OUT鳩待峠) 
 2019年04月29日 秋葉山・仏果山・経ヶ岳(相州アルプス南部)

【鉄レポ】
 2018年02月05日 JR石勝線夕張支線

【旅レポ】
 2020年02月08日 鬼界ヶ島-「俊寛」悲話の舞台を訪ねる-

【銭湯めぐり】
 2006年01月19日 ゆーポッポ〔東京都練馬区〕
 2006年01月20日 ニュー銭湯和倉〔東京都練馬区〕
 2006年01月23日 寿湯〔東京都練馬区〕
 2008年07月16日 初音湯〔東京都板橋区〕

 ※博物館・美術館・動物園などはANNEXの目次を見てね

おでかけレポート目次
「野鳥撮影 板橋区」で検索したら、一番に出てきたのが荒川生物生態園。
へぇ~そんなのあるんだ(初心者丸出しですな

国道17号線が荒川を渡る「戸田橋」すぐ近くの河川敷にあるようです。
JRでいうと、埼京線の浮間舟渡駅から歩いて15分ほどですね。
この近くは何度も訪れているはずなのですが、全く知りませんでした。
関心がないと、気づかないものですね

2020年5月31日。朝4時に起きて、自転車で行ってまいりました。
野鳥を撮りはじめて、休日は早起きするようになりました。良い傾向ですね
早朝、誰もいない蓮根駅前通りを一気に北上。荒川の土手上に自転車をとめて、4時50分、荒川生物生態園に到着です。
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夏至近く、早朝5時前でもすっかり明るくなっています。よし、目論見どおり
それにしても、東京23区内の風景とは思えませんね。
荒川生物生態園
このあたりの荒川河川敷は、野球場とかバーべ球場(びっくりしたぁ、こんな誤変換するか?)じゃなかったバーベキュー場とかで整地されているところがほとんどなのですが、確かにここだけが草木が生い茂ったままになっています。

ちなみに、荒川の対岸から見るとこんな感じです。
都会の中に、ここだけ別世界です。
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まずは中央の野鳥観察デッキへ。って、蜘蛛の巣がすごいっっ
朝いちばんの利用者ですから仕方ないですが、何か棒とか持ってくればよかった
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鳥たちの歌声が右から左からと聞こえてきます。
でも、展望デッキからは...ん~。鳥の姿は全く見えません。
動物園じゃないですからね。まぁ仕方ないかな。

と思っていたら。左から颯爽と飛んできて着水したのは...
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カルガモさんでした~
これで子ガモが一緒に泳いでいたら最高だったんですけどね(贅沢言わないのっっ)。

このまま展望デッキにいても、鳥の姿は増えそうにありません。
他へ回ってみましょう。
デッキから戻ってきたところの頭上にいたのが...
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うぅ...早速、誰だかわからん...
荒川生物生態園で見られる鳥たち
案内板を見ても、誰だかわからず。
この中にはいませんよね。
ギブアップ!次、行ってみよ~

西側の「魚と親しむ水辺」へと回ります。
干上がりかけていて、魚はいそうにないですけど
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遊歩道に降りてきたのはスズメさん。
知っている鳥だとホッとしますね
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きけん!
ぜったいに入らないでください。
水がなくても、うまってうごけなくなります。

だそうです。
きっと入って、動けなくなった人がいるんでしょうね。
自分が動けなくなった姿を想像して戦慄してしまいます

鳥の姿を見ると、藪をかき分けて近づいてみたくなりますが、立入禁止区域に入るのは絶対にやめましょうね。

さっきからケーン、ケーンというキジの声も聞こえますが、姿は見えません。
こんな都会の水辺にもいるんですね。
田舎の山では狩猟対象ですから、むしろ都会は安住の地なのかもしれません。

さて、手前の「緩斜面の水辺」に戻ってまいりました。
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ムクドリさんが、しきりに何やらついばんでいます。
遠目でよく見えませんが、草の陰に虫とかがたくさんいるんでしょうかね。
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こちらはオオヨシキリさんでしょうか。
木のてっぺんで気持ちよさそうです。

展望デッキの入口まで戻ってきましたが、一旦スルーして東側へも回ってみましょう。
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遊歩道の両側は背丈の高い草が茂っていて、相変わらず蜘蛛の巣を払いながら進みます。
今だからいいですけど、夏の盛りとか歩きたくないですね
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花の名前はわかりません。
鳥もですけどね
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枝の陰でよく見えませんが、ムクドリさんかな。
木の実がいっぱい。ごちそうに囲まれてご満悦です
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モズさん登場。
美形ですね~
秋に来れば、このあたりでも早贄とか見られるんでしょうか。
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おしり回りの黄色い羽がチャームポイントのカワラヒワさん。
このまえ志木の田んぼで見たばかり。よし、覚えたぞ

これでひととおり回ったかな。
展望デッキへ戻ってみましょう。
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デッキからかなり遠目ですが...
アオサギさんですねっ
やっぱり鷺科を見るとテンション上がります

カメラの電池が切れて、急いで入れなおして顔を上げたら、もうどこかに飛び去っていました

ただいま朝の6時20分。ジョギングや散歩の人も増えてきました。
静かに見られるのも、このあたりで潮時かな。
最後にもう1回、西側の「魚と親しむ水辺」に回ってみましょう。
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茂みの陰からカルガモさん登場。

後ろからちょこちょこ子ガモがついてくる...のを一瞬期待しましたが、大人のカモ二羽だけでした。そううまくはいきませんよね

さて、そろそろ帰りましょうか、と思ったところに...。
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おっと。
西の空からサギが飛んできました。
近くに着陸しそうですよ

慌てて展望デッキへと駆け戻ります。
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え~
やっぱりわからない

ダイサギ?目元の婚姻色の緑がないよね...
チュウサギ?目が赤くなってないよね...
コサギ?頭のうしろの飾り羽がないよね...

うん、チュウサギってことにしよう。根拠ないけど。
誰かおわかりの方、教えていただけると嬉しいです。
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最後に、相変わらずノリノリで歌っているオオヨシキリさんを撮って、本日の鳥見は終了。
楽しかった~

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「俊寛」を知っていますか?

時は治承元(1177)年、平家全盛の頃。僧都・俊寛は「鹿ヶ谷の陰謀」-後白河法王の密命により平家打倒を画策したという-で平清盛の怒りにふれ、丹波少将成経・平判官康頼の2人とともに「鬼界ヶ島」へ流罪となってしまいます。
翌年、高倉天皇の中宮徳子の安産祈願のために大赦が行われ、俊寛らの待つ鬼界ヶ島へも赦免の船がやってきますが、赦された人の名前の中に、清盛に深く憎まれた俊寛の名前だけはありませんでした。せめて九州までもと取りすがる俊寛を払いのけ、一気に沖へと漕ぎ去る赦免船。ただ一人島に取り残され、消えてゆく舟影を呆然と見送るしかなかった俊寛...。

平家物語に伝えられ、後世さらに脚色されて能や歌舞伎の題材として人気を博したこの「俊寛」伝説の舞台、鬼界ヶ島。

ところでこの島、ちょっと日本地図で探してみて下さい。見つかりましたか...?
そう、隅々まで探しても、現代の地図には「鬼界ヶ島」などという名前の島は見つからないでしょう。
それでは、ひとり残された俊寛が一生を終えたというこの島は、いったいどこにあるのでしょうか?

実は、このエッセイを書いたのは1996年。おぉ、もう随分と古い話になってしまいましたね。
ある能楽関係のWebサイトに載せていただいていた文章なのですが、そのサイトは随分前に閉鎖され、みなさまの目に触れる機会を失ってしまいました。
久しぶりに当時の原稿を読み返してみると、なかなかどうして、よくまぁこんな辺鄙な島々を(地元の皆様ゴメンナサイ)巡り歩いたものだと我ながら呆れてしまうのであります。
このまま埋もらせてしまうのも勿体なく、こちらで再掲載させていただくことにいたしました。

文中に出てくる中村勘九郎は当然先代の勘九郎ですし、約10,000人とご紹介した喜界島の人口は今では7,000人を割り込み(2020年1月1日現在)、一方で離島だったはずの伊王島には2011年に橋が架かり、車で行けるようになりました。
私が島を巡ったこと自体が、もはや歴史を感じさせる古い話のようにも思えますが、そんなギャップも探していただきつつご笑覧くださいませ。

「平家物語」などに伝えられるところによると、俊寛ら3人の流罪された島は「硫黄島」と呼ばれ、また「鬼界ヶ島」と呼ばれることもある。謡の中にも「硫黄」「九州薩摩潟」「鬼界が島」といった言葉が出てくるのだが、この島が現在のどこにあたるのかは、実はいくつかの説があって現在でもわかっていない。

俊寛が流された島はここだ、と名乗りをあげている島は、私の知る限り3つ、いずれも九州地方にある。1つめは、俊寛が晩年を過ごしたという「俊寛堂」が復元され、当地で中村勘九郎による歌舞伎「平家女護島」が演じられた硫黄島(鹿児島県)。2つめは、俊寛のものと伝えられる墓が残り、その墓の調査により俊寛のものと推定される人骨と木管、装飾具が発見されたという喜界島(鹿児島県)。そして3つめは、同じく俊寛の墓があり、当地を訪れた北原白秋が俊寛を憐れんで詠んだ歌碑の残る伊王島(長崎県)である。

こうした島々を実際に見比べてみようと、平成8年春、私は「俊寛」伝説の残るこれらの3つの島々を順に訪ね歩いてみた。

[1]硫黄島~赤く輝く火山と温泉の島

鹿児島港から南へ100Kmあまり、硫黄島へと向かう村営船「みしま」は3日に1回しか就航していない。人口は200人足らず、今も噴煙を上げる「硫黄岳」を中心とした火の島である。

鹿児島港を出て4時間、穏やかな海を越えて西に硫黄島の姿が間近になってきた。硫黄岳の山頂から崩れた岩肌が海岸まで一直線に落ち込み、とても人の住めそうにない険しい島だ。しかし、硫黄岳を右に見つつ島を回り込むと、やがて小さな平地が現れ、「みしま」は硫黄島港へと入港した。都会から遠く離れた小島、海の色もさぞ美しいだろうと思うところだが、海面は何と一面鉄サビのような赤茶色。なんでこんなに汚れているのかと思わせる色だが、何でも港の底から温泉がわいているせいで、決して汚い訳ではないのだという。さすがは活きた火山の島だ。

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ひと晩お世話になる「民宿硫黄島」さんに荷物を置き、早速島の中央近くにある「俊寛堂」へ出かけた。
島内にはバスやタクシーなどはなく、宿の車を頼まない限り、この島を巡るには自分の足だけが頼りだ。島に1つしかない集落を抜け、しばらくは椎茸栽培だろうか、たくさんの木組みが並ぶ畑が続いていたが、やがて道の両側は静かな林になった。ほどよい風と日射しが心地よい散歩道だ。

20分ほど歩いて「俊寛堂」の立札から脇道へ入ると、今度は谷へと下る暗い山道だった。道の上を苔が覆っていて、一歩進むごとに靴が静かに沈む感覚が柔らかくて気持ち良い。3分ほどで谷へと降り、小さな池の脇を通ると、六角形の小さなお堂が建っていた。俊寛堂だ。

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最近復元されたばかりなのだろう、俊寛堂はこざっぱりとしたきれいな建物だった。この俊寛堂は、ただ1人島に取り残された俊寛が絶望の日々を送ったところだという。うっそうとした木々に囲まれ、あたりは風の音が過ぎてゆくのみ、俊寛はなぜこのような暗く寂しい谷間を最期の場所に選んだのだろうか。海の見えない場所に籠ることで、叶えられぬ望郷の念を忘れようとしたのか、それとも、自分が都びとだというプライドが、島の人たちとかかわりつつ暮らしていくことを拒ませたのだろうか...。

俊寛堂を離れ、そのまま島の名所巡りへと出かけた。波打ち際の温泉に火山の展望台、遣唐使や平家の落ち武者の遺跡、なぜか島じゅうを闊歩する孔雀たち(本物ですよ)等々、この小さな陸地に自然も歴史もと欲張りなほど見どころの多い島だ。これらの見どころの話も是非書きたいところだが、今回の主題から離れてしまうので我慢しておく。が、1つだけ紹介させていただこう。俊寛の死からわずか5年後、壇ノ浦に平家が滅んだとき、入水したはずの安徳天皇の墓がどういう訳かここ、硫黄島にあるのである。

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港の集落の一番奥、俊寛堂へ向かう道のすぐ脇に安徳天皇の墓はあった。硫黄島の俊寛立像案内板がなければまさかこれが「天皇陵」だとは思わないだろう、人の背丈ほどもない小さな墓だ。草を分けて進んだ奥には、平資盛の娘で安徳天皇后とされる櫛匣局(くしげのつぼね)の墓まであった。案内板によると、壇ノ浦で入水したのは身代わりで、安徳天皇自身は同じく落ち延びた平家一門とともにこの硫黄島に逃れてきたという。さらに櫛匣局との間にできた子が長浜氏を名乗り、今なおその子孫が島に住んでいるというからすごい話だ。おそらく、平家一門の誰かがこの島まで逃れてきたというところまでは本当かもしれない。そして、自分たちの正当性を誇示するために、我々のもとには安徳天皇がいるのだ、と言い張ったのだろうか...。それにしても、俊寛がもう少し長生きしていれば、この島で安徳天皇と会っていたかもしれない、と考えるのはなかなか愉快だ。

名所巡りを終え、民宿へと戻る前にもう一度港へと行ってみた。港の近くに、平成7年5月に建てられたばかりの俊寛の銅像があるはずだ。

俊寛像は、硫黄島港の西端、海を望む場所に建っていた。遠くから見ると何だか変な形だ。何だありゃぁ、と近づいてみると、これがまた強烈なインパクトのあるものだったのだ。

「おぉーい、待ってくれぇー!私を1人にしないでくれぇー!」

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右手を天に向かって振り上げ、髪を振り乱し、水平線の彼方に消えてゆこうとする赦免船に向かって、気も狂わんばかりに叫び続ける俊寛-夕焼けに照らされ、赤茶色の海に向かって今にも走り出しそうな俊寛の像は、僧侶らしい落ち着きなどみじんもない、鬼気迫り、哀れみを誘い、それでいて(失礼ながら)どこかコミカルな表情をしていた。よくこんなものを建てたものだ、と像を制作者、それにこの像を村で一番目立つところに建てることを認めた島の人たちに思わず感心した私であった。

[2]喜界島~青い海に浮かぶ珊瑚礁の島

硫黄島から鹿児島港へと戻ったその日の夜、今度は「フェリーきかい」に乗って喜界島へと向かった。鹿児島のはるか南、約400Km彼方にあり、現代の大型フェリーでも一晩かかる距離だ。この島は人口約10,000人、硫黄島よりずっと大きな島で、鹿児島や奄美大島から飛行機も飛んでいるが、その遠さを実感するために、今回は船を使うことにした。

朝4時30分。目が覚めたとき、船はちょうど喜界島・湾港に着こうとしていた。まだ真っ暗だ。私の他に何十人もの乗客がここで降りたが、自分の車やら迎えの車やらであっと云う間にみんないなくなってしまって、私だけが闇の中に取り残されてしまった。港は湾という名前の喜界島で一番大きな集落のはずれにあるのだが、街灯も少なく、夜が明けるまで何とも心細い思いであった。

目指す俊寛の墓は湾の町の中にあるらしいが、折角ここまで来たのだから、島じゅうを見て回りたい。喜界島は周囲50Km弱、面積は硫黄島の5倍。歩いて回るには1日ではとても足りない。バスはそれなりに本数もあるが、行ける場所が限られてしまい、また短い滞在では思うように見て回ることができない。この島を見て回るには、やはりレンタカーだろう。早速湾の町外れにある空港の近くで車を借りた。12時間で4,000円。私にとっては実に2年半ぶりのハンドルであった。

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この島には、硫黄島にはなかった開放感がある。海岸近く迫った断崖はあるが、その上に登ってみるとなだらかな丘がどこまでも続いている。島中央部の百之台公園からは、珊瑚礁の美しい海岸線が一望に見渡せ、あぁじぶんは今南の島に来ているのだとの思いを強くさせる光景だ。また、この島も自然だけでなく、歴史の言い伝えがいろいろと残る島で、硫黄島では安徳天皇だったが、喜界島でも負けじと源為朝の伝説が残る泉があったりする。俊寛の話もそうだが、2つの島は何だか張り合っているかのようだ。

いやいや、南の島の雰囲気と久しぶりの車の運転に浮かれてしまって、俊寛を訪ねるのが後回しになってしまった。島を2周して戻ってきて、湾の町にあるはずの俊寛の墓を探したのだが、車の中からでは案内板も見つからない。仕方あるまい、と空港の駐車場に車を置いて、町の中を歩いて探すことにした。町の人に聞いて、ようやく俊寛の墓の場所がわかったが、表通りに場所を示す案内板はなかった。これでは車の中から見つけるのは無理だ。

喜界島の俊寛座像「何してるの?」市街地の裏手にある運動公園にさしかかった頃、小学3年生ぐらいの男の子が話しかけてきた。「俊寛さんに会いに来たんだよ。俊寛さんって知ってる?」「何だ、俊寛か、すぐそこだよ。」見ると、俊寛像とおぼしき銅像が目の前、公園の片隅に建っていた。何ともあっけない出会いである。俊寛の墓と伝えられ、その中から俊寛のものとされる人骨などが見つかったという墓も、その横で大切に守られるように保存されていた。

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喜界島の俊寛像は落ち着いた座像で、実におだやかな表情をしている。俊寛というと僧とはいえ当時の権力闘争の中心にいた煩悩多き人物とのイメージがあるのだが、こちらの像は何だか悟りをひらいた高僧のようで、硫黄島の俊寛像のあの未練たっぷりの姿とは全く対照的だ。はるか水平線の彼方に九州最南端の開聞岳の望める硫黄島と違って、どんなに空気の澄んだ晴れた日であっても、この島から九州を望むことはできない。俊寛がこの島に流されていたなら、遠くに見ることさえできない九州の影に絶望を深くしたことだろう。その絶望を経て、この島の明るさ・穏やかさに、俊寛もこの座像のように平静心を得ることができたのだろうか。

[3]伊王島~緑豊かな長崎港外の島

伊王島は長崎港から1日13便出ている高速艇「コバルトクイーン」で20分、距離にしてわずか10Kmと、硫黄島や喜界島に比べれば随分近くて便利な島だ。

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俊寛の孤独に想いを馳せる間もなく、あっと云う間に伊王島港に着いてしまった。

伊王島はかつては炭坑の島として栄え、昭和47年の閉山後はその人口も急減したが、近年長崎市の目と鼻の先という地の利を生かし、観光開発によりかつての賑わいを取り戻しつつある。私が島を訪れたときも、高速艇の船着き場は観光客向けにお色直しの最中であった。港の土産物屋でレンタサイクルを借り、橋でつながっている南側の沖之島をひと巡りした後、「俊寛の墓」を目指した。

伊王島は平地が少ないので、港に面した急斜面にへばりつくように民家が並んでいて、道もかなり急な坂が多い。俊寛の墓はこうした集落のさらに上にあって、とても自転車をこいで上れる場所ではなかった。自転車を押し押し、坂を上り切った頃には、すっかり汗だくになってしまった。

俊寛の墓は、見晴らしの良い明るい丘の上、海峡を隔てて九州を望む芝生広場の片隅にあった。硫黄島や喜界島のような銅像は無いが、俊寛の墓と並んで立派な歌碑がある。昭和10年、この地を訪れた北原白秋が俊寛を憐れんで読んだ長歌の碑である。800年の時を経て、白秋の思いはどのようなものだったのだろうか。

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伊王島の俊寛墓平家物語でも能の謡でも、俊寛が流罪にされた島は「薩摩」の鬼界ヶ島とされている。そうなると薩摩とはまるで方向違いの伊王島は分が悪いように思われるのだが、その点は次のように説明されている。曰く、平教盛(清盛の弟)が3人を流刑地に送る際、自分の荘園が肥前嘉瀬庄にあったので、仕送りに便利な伊王島に彼らを流し、清盛へは「薩摩の硫黄島に流した」と報告したということらしい(伊王島町教育委員会の碑文より)。

それにしてもここから望む九州はあまりに近い。これでは「せめては向かひの地までなりとも」と船にすがりつく俊寛の姿を思い浮かべ難いのだが...。しかし、「鬼界ヶ島」というと硫黄島や喜界島のような絶海の孤島のような印象があるのは確かだが、私たちの知る「鬼界ヶ島」が後世の脚色により哀しい部分を強調されたものと考えれば、俊寛たちが流されたのは案外こんな島だったのかもしれない。

島の北端、伊王島灯台まで足をのばし、伊王島港へと引き返してきた。帰りはずっと下り坂、なんともラクチンである。船の待ち時間に港の土産物屋をのぞいてみたら、「俊寛もなか」なるものまで売っていた。まったくもう...と思いながらもやっぱり買い込んでしまう私自身にちょっぴりあきれつつ、やがてやってきた帰りの船でこの旅の最後の訪問地、伊王島を後にした。

一人残された俊寛は、赦免の報を聞くことなく、失意のうちに翌治承3年(4年との説もあり)37歳でその一生を終えている。徳島県鴨島町の玉林寺には、俊寛を残して島を去った平康頼が俊寛の霊を弔うために納められた観音像が残っているという。

俊寛が遂にそこから出ることができなかった鬼界ヶ島、現在では3つの島それぞれが、うちこそは本物と自信を持っているようだが、本当のところは永久にわからないかもしれない。私も3島を巡ったが、この島こそと確証を持てるような発見などできるはずもなく、それぞれまったく違うカラーを持ちながらも、どの島をとってももしかしたらここなのかなぁ、もしかしたら俊寛は3人いたのだろうか、とさえ思いたくなる島々であった。

平家物語は歴史を後世に伝える役目を果たしたのと同時に、それ故にまた多くの謎を現代に残したようだ。聞くところによると、安徳天皇が逃れたという里も日本中にいくつもあるらしい。今度は安徳天皇探しの旅に出ようか。その時にでも硫黄島は是非再訪しよう...。今度はそんなことを考えている。

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